昭和45年08月17日 朝の御理解
御理解 第7節
「天地金乃神は昔からある神ぞ。途中からできた神でなし、天地ははやることなし、はやることなければ終わりもなし。天地日月の心になること肝要なり、信心はせんでもおかげはやってある。」
信心はせんでもおかげはやってやる。信心を頂くようになって分からせて頂く事はここのところと。確かに信心をせんでも、天地金乃神様のおかげを受けなければ、私共がひと時でも、この世に生を受けておくと言う事ですら、も出来ないのであると言う事を分からせてもらう。そこに必然的に出来てくるのが、そのおかげに対する報謝の心。信心を知らなかった、まぁ知らなかったとは言いながら、ようも今日までこうして、おかげを頂いて来たものだと。
それを信心によって、いわゆる金光大神のお取次によって、そこの事訳を分からせてもらい、日々を金光大神のお取次の、お働きにお縋りして、天地金乃神様への御礼の生活が始められる。まぁそれが金光教の信心だとこう思うのです。そこでそうした天地金乃神様の、言わば流行ることも無ければ、終わりも無いと言われる、神様の働きを働きとして何時も頂き続ける、それを私は「天地日月の心になること肝要なり」と仰せられたのは、その事だとこう思う。
いう天地金乃神様のお働きを現して行く、自分の身の上に、心の上に家庭の上に、社会にそれを現して行くという、それには私共が天地日月の心になる事を学ばしてもらえる、又はそれを行じさせてもらうと言う事になります。天地は流行る事もない終わりも無い、いわゆる成る程天地そのゆうきゅうの、ものでありましても、金光教の信心が流行も無からなければ終わりも無いというのではないと思うね、ただこの御理解を頂いておりますと、金光教はもう天地と共に極まりなくね、
その繁盛して行くと言う様な感じを受けますけれども、そうではないとね、やはりそうした、金光教に真の信奉者である私達がね、そう言う事で、まぁ胡座をかいておったんでは、第一天地金乃神様の働きを現す働きすらも無くなって来る。この辺のところが私は、いわゆる天地日月の心になる事とはどう言う事か、とそれに本気で取り組ませて頂いて、参りませんと天地の働きを生き生きとして現す事が出来ん。
ですから金光様のご信心も、そういう生き生きとしたものがなくなったら、いわゆる何と申しますかね。いわゆる形式教とでも申しましょうかね、ただ形式だけを重んじるような宗教に、まぁ成り下がってしまうと思います。どこまでも金光教の信心を頂いて、いわゆる言うならば生き生きとしたおかげを日々自分の心に感じ取らせて頂けれる程しのおかげを頂いていかなければならん。
昨日先日13日会の日に、山内教会の総代さん方が5人で、ここの総代さん方とお話合いをして、お話を聞く所によると随分合楽教会ごヒレイが、輝いておると言う事でありますが、そういうごひれい、まぁいうならごひれいに浴したいと、言うて申し込んでおられる。私が13日の日にならば大体総代幹部集まりますから、13日の日にお出で下さいと、言うて葉書を出しときましたから、13日の日に見えましたわけです。
丁度13日は、まぁ金光様のご信心を頂きましても、改式をしとるという人はそう沢山はありませんし、やはりむこうからまたはがきがまいりまして、折角13日というご返事を頂きましたけれども、13日はそれぞれお盆でございますので、と言う様な葉書が来とりましたけれども、まぁそれでもね、あのまぁ見えるなら見える、見えてもええ見えなくなら見えなくても良い。まぁそんな積りでお願いをさせて頂いておりましたら、総代さん5人、まぁ言わば全員見えたわけです。
そしてまぁその後先の事を思わせて頂くのに、この台風の前後の事からこう思う、思いまいてね、丁度一番良い日だったなとこう思います。一番おかげを頂いた日にお繰り合わせ頂かれておった。同時に13日会という日は、神様の願いが成就する日としてここでは大事にする日ですから、このご信者さんも沢山集まっておられて、一緒にまぁいうなら合同の信心研修会をさせて頂いたわけでございますから、まぁ大変充実した信心共励会が出来まして、まぁもう改めて金光様のご信心を分からせて頂いた。
新たな信心の芽を開かせて頂いたと、喜んで帰られましたが、昨日まぁお礼の手紙、なりまあお願いなりるといったような、おばあさんの、上品なおばあさんの洋服で見えておられた方、その方だと思いますがこう言う手紙が来ております。「残暑厳しいおりから、先生にもいよいよご壮健にて、晴れやかなお顔を拝し、この上もなき幸せと心中より嬉しく存じ上げました。初めてお伺い申し上げ、色々お手は厚きおもてなしも、おもてなしに預かりまして、御礼の言葉もございません。
只々恐縮いたしております。聞きしみまさるお徳に接し、ご厚情に甘え大変失礼を致しました。お許し下さいませ。事にご多用中お茶室までも拝見させて頂き、ご寵愛のしだも緑の色、鮮やかに慎ましやかに、しかも元気に成長しておりました。私も山内教会にて奥様八十一歳他5、6人の方とお茶事、お茶事ですねを楽しませて頂いておりますので、事の他お懐かしく拝見させて頂きました。有り難うございました。おかげの泉は早速拝見させて頂きました。
私の胸に響き益々、送風真剣にお道の信心の稽古に取り組ませて頂きたいと存じております。おかげの泉を毎月ごお願い致します」と言うてここに千円送料共に送ってあります。右、封入致しておりますゆえ、おわさめ願いますと。「台風はおさわりは有らせられませんでしたでしょうか、まずは御礼をかね、ようようのみ申し上げます」と言う様な手紙を頂いております。まぁ私はこの手紙を見せて頂きましてですね、もうここは40年からの、教歴を持った教会であります。
それがまぁ人が助かるとか、まぁごひれいがたっておるとかと言う事その事がですね、まぁ色々に良い事悪い事、まぁ随分評判は高い、まぁいうならどっちかというと、まぁこの近所ではここの悪名の方が高かろう、合楽の場合はですね、と思うんですけれども、まぁそういう様々な事情をおして、どうでも合楽に一辺おかげを頂きたいと言うて見えておられて、そしてまぁ聞きしに勝る合楽教会のごひれいというものに接しられて、まぁ色々まぁ感銘を深こうしてて帰られたと言う事でございましょう。
秋永先生がここの、ずっとお広前なり又庭を、案内して回っておりましたから、まぁそのお礼なんかがさせてありますけれども、あの茶室の所を見られまして、まぁそこのところを一所こう言う風に、詳しく書いてありますだけでも、何かこんな手紙で生き生きしておられますね。茶室を見せて頂いたげななくて、その茶庭をご覧になり。見られたそしてあそのにあの、杉の木がいっぱい植えてある中にしだが出ておる。恐らくあれを先生がまぁ色々こと細やかに、その説明したんでしょう。
ここにはしこうして自然に、しだが生えておるんですけれども、お掃除のたんべんに誰かがこれを摘み取ってしもうてから、もう先生が折角かわいがっておられるのを、ようやくそれもこの位出ましたというて、そういう説明も加えたのでしょう。ですからそんな事が、先生ご寵愛の品も生き生きと、しておったと言った様な事が書いてありますそうですね。そういうその、まぁ生き生きとした説明の仕方、または生き生きとした、その情景のキャッチの仕方。というものがね私は有り難いと思います。
ただ言うなら家を連れて回るというて、唯から連れて回るだけではなくて、その位なね、私は生き生きした親切というものがなからなきゃならん。又受ける方の側としてもですね、それを自慢たらしく説明するという風に受けずに、それをやはり印象深くそこん所を、まぁ清々しゅう、そのご案内を茶室までも拝見したと言う事を、まぁこうして文章に書いておりますように。自分もお茶のお稽古をまぁ5、6人させて頂いておられると言う事も書いてありますが。
そういうやはり稽古をしておって初めてそこん所の、まぁキャッチも出来る様なものなんですね、もしそういう例えどういう素晴らしいなら、その趣がありましてもです、関心が無かったらそれは唯の説明。ただ見て回ったというだけに過ぎないでしょうけれども、ここへね、言うならば生き生きとした親切と、生き生きとした心との、それをこの手紙の中から感じますね、同時になら金光教がね、いわゆる天地は成る程はやる事もなからなければ終る事もない。
確かにそうだろうけれどもなら、金光教の信心はそうではない。流行る事もありゃまたすたるかも分からないね、問題はその継ぎて継ぎての言わばね、金光教の信心を受け継いで行く人達のですね、受ける者伝える者の生き生きとした信心の、流れというか動脈というかね、そう言うものが伝わってこそ初めて生き生きとして、金光教の信心いわゆる金光様のお取次の働きによって、天地の働きを生き生きとして、言うならば天地が自由になると言う程しのおかげを現して行く事が出来るんだと思うのです。
例えば今ここに書いてありますように聞きしに勝るまぁここのごひれいと、まぁこりゃ一つのほめ言葉でもありましょうけれどもですね、なら金光様の、ご信心を頂いておる、なら金光様の教会がです、全て、いわば流行る事もなからなけらば、すたる事もない。何時も、生き生きとして人が助かっておらなければならないはずですけれども、それが違うという所から、申しましてもです、金光様のご信心というのが、いかに生き生きとした信心が必要であるかと言う事を悟らなければならん。
その生き生きしたものと言う事は、なら何処なのかね、一生懸命修行が出来ておる。さぁそれこそ火の行水の行もいとわんね、あらゆる修行でもさせて頂いて神様に向かう、成程生き生きとした心ですけれども、その事で私は天地の生き生きとした働きを、生き生きとした働きとして現す事がは出来ない。そりゃ一部的なおかげ一部的な、まぁひれいというものは見る事が出来ると致しましても、どこまでも教祖の神様は、天地の言わば心を心としてと、ここではそれを天地日月の心と言うておられます。
その天地日月の心と言うものを、になる事肝要だと言う事に焦点を置いての、金光様のご信心でなからなければならないね、その天地日月の心とは、天の心とは地の心とはとね、日の心月の心とはという所に、私はいよいよ実意丁寧神信心がなさらなければならないね、言うなら天地ほど実意丁寧。それこそ一分一厘の間違いなく、天地ゆうきゅうの昔から、それが繰り返し繰り返し天地の働きと言うものがなされておる、誰が喜ぼうが喜ぶまいが、そう言う事には無頓着ね、天地の言わば運行そのものがそれである。
それこそ一部足ろうても、一厘違うてもね天地が、言わば崩れるほどしの事になるというね、例えば一分一厘違うても太平洋の、例えば海水が富士の山の上よりも高うなってしもうてもですからね。そのように正確無比な働きを天地がなしておられるね、そういう天地の心を心として教祖様はね、天地金乃神と同根とまで言わばたてられなさった。と言う事はいかに教祖様が一分一厘間違いのない程しの、人間生身を持っておる人間としては、最高と思われる神様としては、こういう氏子を又と見た事ないと言われる程しの実意丁寧の限りを尽くされて、天地金乃神様のご信心を現しなさったわけなんです。
ですから私共もそこん所をですね、いわゆる学ばせて貰わなければ、天地日月の心なかなかその一分一厘間違いのないと言った様な働き、なかなか出来るもんじゃないですけれどもです、私も段々信心の稽古をさせて頂いて、いわゆる実意丁寧と言うところに、をモットウとさせてもろうて。信心をいよいよ続けさせて頂かなければならん。ですから金光様のご信心はもうね、この実意丁寧をかいたらね、金光様のご信心の、言うならば色彩をかいてしまうほどしです。
そこでね私共は、思わせてもらうんですが、いわゆる天地の心と、まぁ昨日飯塚の安藤さんがご参拝になって、でこの頃参拝された時に、あの近所にその彫刻をなさる有名な人がおられましてね、木彫です。それで色んなまぁ実に見事な彫り物をされる。絵でもよかれば、字でもよい。それでここのお広前にもふさわしい何か、彫刻なりをしてもらって、お供えしたいとこう言われた。
それで先生の、何か一筆書いて頂いてそれを、彫らせてもらおうと言われるから、しかしここには上がるのは私が書いたのであった一つも意味がない。値打ちがない。ですからそういう、まぁ彫刻でもなさる方ならば、字もきっときれいな字を書かれるに違いないから、その方が書かれたもので良いですから、その方にお願いをして下さいと。そうですかそんなら、ならそげんしましょうが、んならどう言う事を、をまぁいきなり書いてもいかんから、なぁ教えの一つも書かせて頂いたらどうでしょうかと言うから。
そりゃそうですなと言うて、そのあの最近私が言い続けております、まぁ「天真地心」と小さい紙に書いて渡しました。そしたらその「天真地心」という言葉なんかは字引を引いてもありませんからね、どう言う事だろうかと、まぁ素晴らしい言葉のようだけれども、そりゃ実はこうこう。と言うて私の事を話されたらしい。そしてとてもとても私共が書いてかなう事じゃありません。もうこういう素晴らしい字を書いて頂いておるのであるから、もうこれをこのまま彫りましょう。
と言う事になったと。と言うて私しが、それこそちょっと落書きのようにして、落書きじゃないけども、書いて差し上げおるそれをそのまんま、彫って来てあるんです。まぁ私はそんな、私の字が上手とも思いませんけども、但しその「天真地心」というその事がね、ただ素晴らしいと言う事であって、こりゃあんたしかし、客殿の入り口に掲げるつもりだったけれども、私が書いたものはこれは掲げられないけども、出来てきとるから仕方がないけれど、まぁこれは私が書いたのじゃない。
神乍にまぁ神様が書いて下さったと言や、私がサインをしておるわけでもないから、まぁどうしようかといくらか実は迷うておるようなわけでございますけれどもですね、その天地日月の心と言う事は、私はやっぱり、天地、「天真地心」だと思います。私共が言わば、この実意丁寧と言う事は、真をそのものだと思いますね。天地の働きそのものが真だと。天の働きが真。地の働きが真ね、天は与えて与えて止まない心。それが真。地はそれを受けて受けて受け抜いていく心。それが真ね。、
そこで私共が天の心と言う事は、与えて与えて止まない、限りない美しい心というものを頂いて行くねそれが真だと。そして同時に地心である地の心ね、地の心をいわばそのものが真だと。私共の上にどの様な例えばその言うなら、先日の様な大風が吹こうがね、炎天であろうがいや極寒であろうがね、どの様な事でもね、言わば花の3月、又はもみじの月と言う様な、そういう月だけが有難いのではなくて、いわるその暑い時であろうが寒い時であろうが、それを黙って有り難く受けて行くというその心が真なのだ。
いわゆる天地の働きをそのままに、有り難く合掌して受けると言う事がそのまま実意丁寧に、それを受けて実意丁寧に現せたのが教祖の神様である。そこに天地日月のいや天地の喜び。天地金乃神様のお喜びが現われない筈がない。私はおかげを受けておる人、又はおかげを、ごひれいを受けておる教会というのはです、そういう生き生きした「天地日月の心になる事肝要なり」と言った様な働きがですね、出来ておる教会だと思いますね、まぁここ辺の所をね、お互いがいよいよ分からせて頂いて。
「天地日月の心になる事肝要」だと、天地の働きをそのまま、私共がです合掌して受けていく、言うなら大修行精神を頂き起こしていく限りです、私はそれこそ天地と共に極まりなくね、繁盛して行く、流行りもなからなければすたリも無いというおかげが受けられると言うのは、そこん所を外れてはおかげにはならんと思うね、ここんところを金光教の信心がいよいよ重点に置いてです、それを行じて行く限り、天地と共に金光教は「家繁盛子孫繁盛」と仰るように、末広のおかげが頂ける事を私は実感致します。
どうぞ一つ、金光様のご信心はまぁ何でも一つ身びいきと言うのがありますからね、何時何時までもね、流行る事もなからなければ死たる事もない。と言った様な考えそういう、言うならうぬぼれと言うかね、を持たせられるような感じのする御理解ですね、これは。天地金乃神は流行る事もなからなきゃ、流行る事がなかなきゃ、終わりもない神様を頂いておる、成る程そういう神様を頂いておりましてもですね。
それをんなら天地日月の心になる事が、例えば理屈の上だけの神様になったり、頭だけの形式だけの宗教になっていったら、その働きはもうそのまま、言うならごひれいの立つ教会、立たない教会があるようにです、すたれていく事を私共は自覚しなけらばならない。だから結局焦点として稽古させて頂く事は、いわゆる「天真地心」であるね、それを受けていく、それを稽古して行くと言う事の為に、様々な過程があるね。
先日いわゆるその、ここの教会の総代さんで、まぁ一番若い総代さんでしたが、あちらでみかん山を作っておられる、みかん山を沢山もっておられる。それがそのやっぱりその、みかんがどうぞ、沢山なって高い値段で売れますようにと言う様なお願いをしてはいけないでしょうかと言うような質問がありました。まぁそれでその事をまぁちょっとテーマにしまして、まぁ全員の人達にそれぞれの考え方を、述べておりました。
そしてそれがね、それが本当に純真無垢、それこそあの、今度あの野口さんの子供さんが神様に休む時に、その恐い夢を見ないようにというて願うと言った様な、そういう純真さをもって願うなら良いだろうと言う事です。けどもその沢山なるように、又は出来るだけ何処のよりも高く売れるようにと言うのが、ただ我情我欲というのであるならば、これはちょっと許されないと言う事です。これはだから、自分自身でなからなければ、そこにがよく分からないと、まぁ様々な説が出ました。
たら最後にね、私は沢山の人のその事の、その良いとか悪いとか、そういうこれが本当だろうと言う様な話の出ました、内は私が頂いておりましたのが、あのあれは何ですかね、紀州の殿様お国いりという、あの童謡がありましょう。「てんてんてまりるのてがそれて」とね、そういうあの詩のリズムをずっと頂くんですよ、その話を聞かせて頂いてうち。そこで最後にもう、もうこれで良いですかという答えが出らんなりに、しまえようとしておりましたから、私その事をまぁ申しました。
だからその純真な、その心で願うと、又は頼む。そういうのですけども、私共の場合はやはり我情が出たり我欲が出たりいたします。だからね実はその事、みかんが良くなるようにとか高く売れるようにと言う事は丁度ね、あの大名行列をして、まぁいわゆる参勤こうたいかなんかの模様でしょうね、んその江戸なら江戸へ向かっておると言う事が目指しであって、この道中の事は「てんてんてまり」であってもよし「手がそれてもよい」または、あの詩の文句に出て来るような様々な、事情が有って良いのだと。
けども目指す所はね、江戸でなからなければならない。目指す所は、私は「天真地心」といったような信心を目指して、その過程がです信心の程度に応じて、どのような願いでもまた良いだろうと。そしてまぁみかんやら高く売れますとね、売れた帰りにはちょっと一杯飲んで行って、飲みたいっち言うわけですね。福島あたりに寄ってから、飲んで来るっちいう訳です。それで家内は結局ごまかさにゃいけませんち、そげな事はどうでしょうか、ちいうような話まで出ました。
けど私それは良いでしょうねち、分からんようにさいすればて私が。よかでしょうか。けれどもそれが毎年同じような事が続いちゃいけませんよ。とね、そりゃ好きなものが酒屋の前を通ったら、やっぱ通り抜けられんくらいにある。と言うて今日の売上からこれしこくらい使うて来たぞ。ち言うとまた家内が角出すといかんからね、それをその辺のいうならごまかし方を、具合をそれこそ金光様にお願いして。
今日はこれこれ私は内緒で、家内に内緒で飲みましたけれども、どうぞつがめようあわせて下さいと言う様にね、願うて私は良いだろうと思う。けれどもそれがね、来る年も来る年も同じであっては、あなたの信心が進んでいない事になるからいけないだろうと言ったようにね、よい、今年はよかっても、明くる年はいけないのである。と言う様にね、信心はこうでなからにゃいかんならんと言う事はないけれどもですね。
それは信心の一つの過程であってね。結局私共日々信心の稽古をさせて頂く者は段々信心、天地日月の心になる事を肝要として、修行させて頂く限り、段々無邪気な信心から言わば大人の信心へと、の成長を見る事が出来るだろう。そこにはおかげの進展も勿論、それに共のうていく事である。私共金光様のご信心を頂いておるから、大丈夫と言う様な、安易な考え方ではなくてね。
天地の親神様の働きを、私共がみ教えによって分からせてもらえる。その御教えにもとづいて、天地日月の心になる事肝要という、いわゆる天真地心のです信心がいよいよ身について来る。それを私そのまま、実意丁寧だと今日は申しました。同時にその事が言わば天の働き地の働きそのものが、真だと言う事を申しました。だからその真に近づいて行く、言わば修練というか稽古が信心の稽古だと言う事になります。
どうぞ。